蓮花[Hasuhana]blog

日常に溢れる真理。

与えられているものを ただ受け取る

人にはいつも

その時、その瞬間に

必要なモノ、コトは

全て与えられている。

 

そしてそれはいつも最善。

 

みんなそれぞれの観点から

好き嫌いや善悪の判断をしているだけで

本当はそのモノやコトに善悪はない。

 

ポジティブ、ネガティヴもない。

 

というより、

全てのモノやコトは

その両方を包括している。

 

なぜならこの世界は相対の世界。

二極があって一つ。

 

だから片方だけなんてものは

この世にはない。

(ただそう見えているだけ)

 

いまこの瞬間の自分にとって

最も必要なモノ・コトしか起こらないし与えられない。

 

だから、

今この瞬間に与えられているモノ・コトを受け取らない限り、例え頭で望んでいることが目の前で起きても受け取ることは出来ないし、

 

もし仮に受け取ることが出来ても

おそらくいずれ手放すことになる。

 

だからいまこの瞬間に与えられているものを、思う存分味わい尽くす。

そういうことか。

昨日突然腑に落ちたことがある。

 

あくまで私の解釈なので

それが正しいかどうかは知らないけれど

 

本当に突然、

 

あ、

神社への参拝って予祝なんだ、と

 

なんというか今更?な感じもするんだけど、やっと理解できたみたいな。笑

 

神社への参拝では本来お願いをするのではなく感謝を伝えると言われている。

 

それを前提とすると

 

参拝=予祝という図が成り立つ。

 

神社とは目に見えるものしか認識し難い人間にとって、目に見える神の座す場所。

 

神とは宇宙そのものであり

森羅万象であり、

一個人の中にも神は宿っている。

 

なので極論 神社へ参拝しなくても

予祝のように

まるですでに叶ったかのように自己の内側で喜びを感じ、感謝できれば完結するのだと思う。

 

ただ私のように予祝(自己内完結)が苦手な人には神社への参拝はやっぱりおすすめ。笑

 

 

ちなみに神社で参拝の際は

名前、住所、生年月日、干支まで

神様にきちんと伝えた上で感謝を述べると良いそうです。

 

恥ずかしながら

私はこれまでの人生

いつも〝何か〟や、〝誰か〟のせいにして生きてきた。

 

その自覚がなかった頃もあれば、

何となく頭では〝そうしている〟ことに氣がついている自分も居た。

 

でも今日しっかりと肚におち、確信してしまった。

 

これは事実だと。

 

私の両親は70代後半。

夜寝るのも早いし、勤勉で真面目。

心配こそ愛情表現と思い、過干渉。

40にもなった娘に帰りが遅いと電話をかけ、休みの日に親族以外の誰かと会えば家を空けることに文句を言う。

朝昼晩きっちり3食食べなければいけないと叱り、、、

 

この世代にとっては当たり前かもしれないいろんなルールが、私には正直鬱陶しく感じるものばかり。

 

好きにさせて。

 

放っておいて。

 

事情があって去年の夏にひとり暮らしを解消し実家に戻り居候していたのだけど、一度自分のペースや心地よい空間を経験した後の実家は居心地が悪いものだった。

 

あ、とてもありがたいとも思っています。勿論。

 

家賃や光熱費を心配しなくても

雨風凌げる家にあったかいお布団、

朝目が覚めれば出来ている朝ごはん、

あったか〜〜いお風呂に湯たんぽ。

幸せすぎる〜〜!とも思っています。

 

でもね、

それとこれとは別なんですよ、別。

 

実家に戻った当初、積極的に家2軒分丸ごと掃除をしまくった。

 

家族がもっと氣持ち良く過ごせるようにと、念入りにみっちりと。

 

そこで起こったのはなぜか喧嘩。

 

年を取り、動くことが億劫な両親にとって、手の届く位置に物が何でもあることが快適であり、使わない物でさえ捨てられない。

 

逆に私は 物は出来るだけ少なく、整理整頓されている空間が快適に感じていたので、ちょっとした物もきちんと片付けたのが裏目に出たらしく、不便だの余計なことをするな!と怒られるのだ。

 

理不尽極まりないとブチ切れて、そんな夜は友達の家に泊まったりもした。

 

 

何が言いたいかと言うと、

 

何もかもが違うのだ。

ぜ〜〜んぜん、

まったく相容れない。

 

快適の概念すら

血の繋がっている両親でさえ

まったく違う。

 

そう、違うんです。

 

それなのに何故か

親子なら相容れなければいけない

理解しなければいけない

というルールが私の中にあったらしく、

それを自分にも両親にも無意識に課していた。

 

だから不要な葛藤を生んでいたのです。

 

そんなことに氣がつかず、

誤魔化し誤魔化し何となく一緒に暮らしていた不満が今日爆発した。

 

出先からの帰り、家に帰りたくない強烈な衝動に駆られて涙が出た。

 

なんでこんなに涙が出るほど嫌なのに家に帰ってるんだろう。。

 

帰らない選択はないの?

 

だれも私に強制なんてしてないのに。

 

 

ああ…

こんなになるまで勝手に自分の氣持ちを押し殺して我慢してたんだ。

 

本当はいつだって環境を変えることは出来たはずなのに、そうしなかったのは私だ…。

 

氣づいてみれば当たり前のことだけど、

ここではないどこかに行きたかった私が どこにも行けなかったのは、私が行こうとしなかったからなんだという、至って単純なことにやっと氣がつけた。

 

何も心配しなくて良い環境はありがたいし、その環境を与えてもらっていることに素直に感謝はしている。でも居心地は悪い。

 

それなら一緒にいなくても良いし、一緒にいられないからといって愛してない訳ではない。ちゃんと愛はある。

 

お互いに心地良い空間やペースが違うなら、それを尊重して別々に暮らせば良いだけのことだった。

 

てことで、引越し準備します。

解放

しばらく前のお話。

 

まだ夢現の状態で

「離れなければいけない」

というキーワードが降りてきた。

 

これは長い間、

そう…もう何十年もの間

私の深い深いところにあった呪縛。

 

だれと付き合っても、

親でも友達でも、

 

大切な人はいつか必ず私から離れる。

 

結局いつも最後には

私は誰からも必要とされない。

 

誰かには誰かがいるのに、

私は誰の一番にもなれない。

 

そう思っていた。

 

 

過去世から持ってきた

奥深くにあった思い込み。

 

なんの前触れもなく

たまたま目にした誰かのブログにより

扉は突然開かれた。

 

 

私は「いつか必ず離れなければいけない」と思ってきた。無意識下でずっと自分にそう“言い聞かせて”きたのだ!頑なに!

 

だから現実はその通りになってきた。

 

現実はいつも自分が思っている通り。

 

私はこんなに辛い想いを抱えて生きてきたんだ…。こんなにも辛い想いをして一人胸を痛めてきたんだ。

 

辛かったよね。

ごめんね。

 

もう離れなくていいんだよ。

 

大丈夫、安心していいよ。

 

そんな想いを精一杯自分に向けたとき

安堵の涙が溢れた。

 

 

物心ついた頃からどこから生まれてくるのかわからない孤独感があり、ずうっともがいてきた。

 

誰かにわかって欲しいと外に向けてきた想いは、自分が氣づき受けとめた途端氷がとけるように私の中に溶けてしまった。

 

肚がズシっと入った感覚がある。

 

この体感は私のものだけど、

この記憶は現世の私ではないことだけはわかる。

 

遥か昔、過去世の記憶。

置き去りにしてきた自分との再会。

 

思いこみが生んだ罪悪感

わたしは長い間

何処かへ遊びに行ったり、

旅行する度、罪悪感を持ってきた。

 

 

 

 

 

両親に対して。

 

 

 

両親は共働き。

 

父は毎日朝日が昇ると同時に起き出し、朝食前から働き、夕食を食べた後も遅くまで休みなく働いていた。

 

母はフルタイムで働いた上、父の仕事を手伝い、家事育児、実家の農園の手伝い、祖母の介護まで1人でこなしていた。

 

母の義弟が経済力のある優しい人で、仕事で忙しい父の代わりに色んなところへ連れて行ってくれたが、家族全員揃っての旅行は一度もなく、たまに外食するくらいだった。

 

そんな中でも母は学校のイベントには必ず来てくれたし、毎日ちゃんとごはんも作ってくれていた。

 

とにかく働き詰めで自分の時間などなく、いつも大変そうで苦労のし通し。

 

なんの楽しみもなく過ごしているように見えていた。

 

だからそんな両親をおいて自分だけが友達と遊んだり、何処かへ旅行したりするのは申し訳ない気持ちにしかならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つい先日までは。

 

 

 

そう、

 

 

 

 

先日までは。

 

 

 

実は先日、

何が起こったかというと

 

 

あるものを見てしまったのだ。

 

 

 

そのあるものとは…

 

 

 

写真。

 

 

 

大量の。

 

 

 

 

旅行の!!!!!!!

 

 

 

地域の積立で、

社員旅行で、

母の姉妹夫婦で、

息子夫婦に連れられて、

組合で、

何かのツアーで、

国内各地、

海外も、

 

 

もう出るわ出るわ。

 

 

 

母がアルバム整理をしていたところに居合わせた為、たまたま目にした数々の旅行写真。

 

 

両親は行きたいところへ行けず、

楽しむこともなく。。。?

 

 

 

 

イヤイヤ!

むしろ私より行っとんじゃね?

 

 

 

 

私が罪悪感を

感じることなどなかったのだ…

 

 

 

 

 

私はずっと両親を

 

「不幸」だと思い込んでいた。

 

 

どこにも行けてないし、

 友達にも会えてないし、

 欲しいものも買ってないし、

 ゆっくり出来てないし、

 楽しいことなんてないし、

 

と、思い込んでいた。

 

 

 

 

 

勝手に。

 

 

でも両親は

 

会いたい人に会い、

美味しいものを食べ、

買いたいものを買い、

旅行を楽しみ、

夫婦の時間を過ごし、

 

私が想像していたよりも遙かに豐かな時間を過ごしていたのだ。

 

 

私とは生きてきた時代背景が違うので、価値観が全く違い理解出来ないことも多い。 

 

でも彼らは彼らの価値観と世界の中で

彼らなりの幸せな時間を過ごしてきたということに初めて氣がついた。

 

 

 

 両親は「不幸だ」と

思い込んで見える世界と

 

両親は「幸せだ」と

思って見える世界は

 

景色が全く違う。

 

 

 

この罪悪感が

私の人生に何を起こしたかというと、

 

 

私は楽しいことをしてはいけない

私は1人だけ幸せになってはいけない

私は豐かになってはいけない

 

 

 

そんな呪縛を自らかけていた。

 

 

 

そして私が遊びに出かけようとする度

 

どこ行くの?

誰と会うの?

いつ帰るの?の後に決まって

 

「遊ぶばかりして」と言われていた。

 

 

聞こえていないふりをして

振り切るようにして出掛けていた。

 

旅行に行くときは決まって

仕事の研修や出張、

友達の結婚式に出席すると

嘘をついていた。

 

大義名分がないことには

出掛けられなかったのだ。

 

 

 

 

 

それくらい

抱いていた罪悪感は大きかった。

 

 

 

 

この発見があったお陰で、

この罪悪感を解放することができ、

 

やっと、もっと楽しんで生きて良いと思うことができたこと、

 

何より

両親は幸せだったのだとわかったことが何よりうれしい。

 

 

食から観える自己のパターン

何を隠そう、私は結構な大食い女。

 

でした。

 

過去形。

 

ピーク時は1日5食、それぞれがちゃんと普通より多めの一人前。2時間ごとにスッカリとお腹が空いていた。

 

過度な買い物や食事は、自分の中の欠乏感を埋める行為だと知っているけど止められない。

 

 

なぜなら欠乏していたから。

 

 

何かで満たさないと生きていられなかった。

 

今もまったく無いわけじゃない。

 

でも

すきなこと、

 

やりたいこと、

 

きらいなこと、

 

やりたくないこと

 

これが少しずつ明確になり、
行動にすればするほどばそれは明らかに感じなくなっている。

 

つい口寂しくてとか、家族・友達が食べているから、なんとなく食べていることをとても客観的に見ている自分がいる。

 

そんな自分をしばらくの期間ぼんやりと眺めていたけれど、客観的に見られるなら行動に移せると思い、

 

都度身体感覚に意識を向けて、食べるタイミングを見極め適切な量にしようと試みている。

 

朝だから、

昼だから、

夜だから、

寝る前だから、

 

身体にいいから、

身体に悪いから、

 

そんなことはすべて

横におく。

 

食べたくない時は
とにかく食べない。

 

食べたくないものも

とにかく食べない。

 

食べたい時に
食べたいものを、
食べたい量 食べる。

 

何も我慢していないのに、
食べる量が全然ちがってすごく面白い。

 

シンプルなのだけど、
身体の声を聞くって望みを叶えてあげること。

 

身体が欲していないのに食べたくない時間に食べたくないものを食べることが、如何に自分に無理強いをしていたのか。

 

そのストレスから解放されるだけで、身体がリラックスしている。

 

お金も、仕事も、パートナーシップも、別ごとに見えて実はすべて根っこは繋がっているので同じ。

 

一つパターンがあれば、
全てに同じ行動をとっている。

 

命に関わる食において
自分に無理を強いているパターンがあるなら、お金、仕事、パートナーシップにおいても同じことをしている。

 

知らず識らず自分に無理をさせる癖が根付いているけれど、こんな小さなことから氣づけることが日常には沢山ある。

 

知ってたけど、解ってなかった。

 

やってるつもりで、やってなかった。

 

なにごとも
氣づくまで、わからない。

 

日常こそすべて。

お茶会@リッツカールトン大阪のお知らせ《改》

先日お知らせしたお茶会の告知で

変更がありますので再告知いたします。

 

実は先日、下見のため一足先にリッツカールトンでアフタヌーンティーを体験してきました。

 

生演奏あり、前菜からスイーツまで非常に可愛らしく、カップのお茶が少なくなれば絶妙なタイミングで注いで下さり、落ち着いた空間でのゆったりと心地良い時間となりました✨

 

が、しかし、

 

私は甘いものが苦手(笑)

スイーツで撃沈しました。。

 

女性として生まれたからには

一度はアフタヌーンティーを体験したい、

 

せっかくならどなたかとご一緒できればなお楽しいのでは♪  と思い企画いたしましたが

 

…もう甘いものは要りませぬ。。

 

それで、もしかしたら

アフタヌーンティーが要らないという私のような方もいらっしゃるかもしれませんので、プランと参加費の見直しをしました。

 

当日飲食は実費にて、

自由にいただきましょう(*^^*)

 

 

自分らしく生きるために色々と勉強して身につけて来られた方は、自分を本質的な豊かさに導いてくれるものが何か分からなくなっていることと思います。

 

本当は何かを身につけることより

事実を認め、不要なものをそぎ落としていくことこそが大切なのです。

 

頑張っても頑張ってもうまくいかない、

そんな方は思い込みのフィルターがかかっているために氣づけていないだけで、本当はびっくりするほど身近なことが変容のカギを握っています。

 

当日はそんなお話を出来たらと思います。お会い出来るのを楽しみにしています。

 

🌟あなたにとっての豊かさを知り、至福を生きるお茶会🌟


【日 時】11月11日(金)13時~16時
【場 所】リッツカールトン大阪
1F ロビーラウンジ
【人 数】3名様
【参加費】10,000円 ※事前お振込

【問合せ&お申込】odeko.dekopon1501@gmail.comまで
※その他詳細は、お申込後直接メッセージにてご案内させて頂きます。