蓮花[Hasuhana]blog

日常に溢れる真理。

「愛してる」が沁みない

自分を愛するワークの中に

自分(自分の身体)に

「私は私を愛しています」

と言う、というのがある。

 

これまで

何度も何度も試みてきたけれど

ちっとも自分の中に沁みてこない。

 

むしろ

何も感じない。

 

何でだろう?

 

最近あらためてやってみたら

何だか私にブロックされているような、

自分の身体の中を投げかけた言葉だけが

すり抜けている感じがしてきた。

 

精一杯心を込めて言ってみても

響いてこない。

 

 

何度もやってみて

わずかに感じられたのは

恐れのような感覚。

 

 

沁みないのではなく、

沁みて愛に気づいてしまうのが怖いのか。。?

 

本当は愛されていること

溢れるほどの愛が自分の中にあること

この世界は愛でしかないこと。

 

そこに気づいてしまうのが

ただ怖いのかもしれない。

 

だから拒否している

…のかもしれない。

 

 

 

でも “今は” まだそうなだけであって

この先どうなるかはわからない。

 

 

愛を受け容れることが“良い”ことで、

愛を受け容れられないことが“悪い”

訳ではない。

 

ただ “今はそうである”

というだけ。

 

だからそれを“今は”受け容れる。

 

そんなことが

ありのままの“今の”自分の

ほんの一部。

内側が外側

きっと多くの人たちは

 

起こった出来事に対して

様々な感情を感じている

と信じているけれど

 

本当はそうではなくて。

 

自分の内側に

自分では気づいていない

何らかの感情を持っているから

 

出来事が起こることによって

その感情をあぶり出されている。

 

それがいわゆる

「現実」と言われる世界。

 

 

例えば

 

割り込みをされたから

怒ったのではなく、

 

自分が抑圧してきた感情に

いつまでも気づいて(目を向けて)あげないから

 

割り込みという出来事が起こり、

(出来事自体は何でも良し)

あなた怒ってるでしょ?と

気づく機会を与えられている。

 

 

感情は感じるためにあるし、

感じるために生まれてきたのだから

 

自分で自分の発している感覚に寄り添い

耳を傾けることが何より大切。

 

自己愛の核は

ただ贅沢をさせることではなく

(させても良いけど)

 

いつどんな時も

自分に寄り添い、

自分と心を通わせること。

 

そうして

内側が満たされれば

外側でも満たされる。

私のいちばんの味方

何を持っていても、

何も持っていなくても

 

何が出来ても

何も出来なくても

 

どんな私であっても

何があっても

 

私だけは絶対に

私の味方でいると

 

決めること。

 

絶対的な味方は

他の誰でもない、

私自身。

 

物質で豊かさを感じられるのは

ほんの一瞬。

 

本物の豊かさは

自分の内側からのみ

生み出せるもの。

与えられているものを ただ受け取る

人にはいつも

その時、その瞬間に

必要なモノ、コトは

全て与えられている。

 

そしてそれはいつも最善。

 

みんなそれぞれの観点から

好き嫌いや善悪の判断をしているだけで

本当はそのモノやコトに善悪はない。

 

ポジティブ、ネガティヴもない。

 

というより、

全てのモノやコトは

その両方を包括している。

 

なぜならこの世界は相対の世界。

二極があって一つ。

 

だから片方だけなんてものは

この世にはない。

(ただそう見えているだけ)

 

いまこの瞬間の自分にとって

最も必要なモノ・コトしか起こらないし与えられない。

 

だから、

今この瞬間に与えられているモノ・コトを受け取らない限り、例え頭で望んでいることが目の前で起きても受け取ることは出来ないし、

 

もし仮に受け取ることが出来ても

おそらくいずれ手放すことになる。

 

だからいまこの瞬間に与えられているものを、思う存分味わい尽くす。

被害者意識

私はこれまでの人生

いつも〝何か〟や、〝誰か〟のせいにして生きてきた。

 

その自覚がなかった頃もあれば、

何となく頭では〝そうしている〟ことに氣がついている自分も居た。

 

でも今日しっかりと肚におち、

確信してしまった。

 

これは事実だと。

 

 

 

 

私の両親は70代後半。

夜寝るのも早いし、勤勉で真面目。

心配こそ愛情表現と思い、過干渉。

40にもなった娘に帰りが遅いと電話をかけ、休みの日に親族以外の誰かと会えば家を空けることに小言を言う。

朝昼晩きっちり3食食べなければいけないと叱り、、、

挙げればキリがない。

 

この世代にとっては当たり前かもしれないいろんなルールが、私には正直鬱陶しく感じるものばかり。

 

 

好きにさせて。

 

 

放っておいて。

 

 

事情があって去年の夏にひとり暮らしを解消し実家に戻り居候しているのだけど、一度自分のペースや心地よい空間を経験した後の実家は居心地が悪いものだった。

 

 

 

とはいえ、

現実的には助けられているので、

とてもありがたいと思うように

自分に言い聞かせてきた。

 

家賃や光熱費を心配しなくても

雨風凌げる家にあったかいお布団、

朝目が覚めれば出来ている朝ごはん、

あったか〜〜いお風呂に湯たんぽ。

幸せすぎる〜〜!

 

これらは与えられているから

あるのだから、それ位感謝していないと人として問題がある。(と思っていた)

 

でも

私が感じている感情と、

環境を与えられているから感謝することは、まったく別事。

 

ごちゃ混ぜにすると

ややこしくなってしまう。

 

 

実家に戻った当初、

私一人で家2軒分(母屋と離れ)

丸ごと掃除をしまくった。

 

家族がもっと氣持ち良く過ごせるようにと、念入りにみっちりと。

 

そこで起こったのはなぜか喧嘩。

 

年を取り、動くことが億劫な両親にとって、手の届く位置に物が何でもあることが快適であり、使わない物でさえ捨てられない。

 

逆に私は 物は出来るだけ少なく、整理整頓されている空間が快適に感じていたので、ちょっとした物もきちんと片付けたのが裏目に出たらしく、不便だの余計なことをするな!と怒られるのだ。

 

理不尽極まりないとブチ切れて、

そんな日はプチ家出状態で友達の家に泊まったりもした。

 

 

何が言いたいかと言うと、

 

何もかもが違うのだ。

ぜ〜〜んぜん、

まったく!相容れない!

 

快適の概念すら

血の繋がっている両親とでさえ

まったく違う。

 

そう、違うのだ。

 

それなのに何故か

親子なら相容れなければいけない

理解しなければいけない

というルールが私の中にあり、

それを自分にも両親にも無意識に課していた。

 

だから不要な葛藤を生んでいたのだ。

 

そんなことに氣がつかず、

誤魔化し誤魔化し

何となく一緒に暮らしていた不満が

今日爆発した。

 

出先からの帰り、家に帰りたくない強烈な衝動に駆られて涙が出た。

 

なんでこんなに涙が出るほど嫌なのに家に帰ってるんだろう。。

 

帰らない選択はないの?

 

だれも私に強制なんてしてないのに。

 

 

ああ…

こんなになるまで勝手に自分の氣持ちを押し殺して我慢してたんだ。

 

本当はいつだって環境を変えることは出来たはずなのに、そうしなかったのは私だった…。

 

氣づいてみれば

当たり前のことだけど、

 

ここではない

どこかに行きたかった私が

どこにも行けなかったのは、

 

私が行こうとしなかったからなんだという、至って単純な答えにやっと氣がつけた。

 

何も心配しなくて良い環境は

ありがたく、感謝している。

 

でも居心地は悪い。

 

両方が事実。

 

それなら一緒にいなくても良いし、

一緒にいられないからといって

愛してない訳ではない。

 

ちゃんと愛はある。

 

お互いに心地良い空間やペースが違うなら、それを尊重して別々に暮らせば良いだけ。

 

勝手に相手を悪者にして

自己防衛していた。

 

自分がどこにフォーカスしてるかで

見える世界はかわる。

愛されたくない

愛していいし、

愛されていい。

 

 

 

 

この言葉を目にした時、

静かに「そうか」と思った。

 

 

そうか、と思いながらも

腑に落ちそうで腑に落ちない

微妙な感じ。

 

 

時間をかけても

自分の中に落とし込もうと、

この言葉を繰り返し

自分に投げかけてみる。

 

 

そのまま寝入り、翌朝のこと。

 

 

まだうとうとしていたころ。

 

 

ふと

 

「愛されていい」

 

と自分に話しかけてみた。

 

 

 

すると何となく感じる違和感。

 

何だろうと静観してみていると…

 

 

 

内側から

「愛されたくない」と聴こえる。

 

 

 

???

 

 

状況を飲み込めない。

 

でも確かに聴こえる

「愛されたくない」の声。

 

 

 

「どうして?」

と聴いてみると。

 

 

 

「愛し愛された人を失うのがもういや。耐えられない。」

 

 

 

 

ああ…

 

 

 

 

 

そうか。

 

 

 

 

今の私ではない私の記憶。

 

 

魂は元々一つ。

その魂が陰と陽の半身に分かれて生まれた瞬間、大切なもう半分の自分を失ったのだと“思い出した”気がした。

 

 

その記憶がずっと残っていて、

あんな想いをするくらいなら

もう2度と愛し愛される経験をしなくて良い。

 

 

はじめから出逢わなければ

失う痛みを感じずにすむ。

 

 

だから愛されなければいい。

愛さなければいい。

 

 

最初から相手に受け容れられなければ、もしも愛してしまっても、失うことはないから。

 

 

ずっとその苦しみを感じなくて済むように、殻をつくってきた。

 

そして痛みを感じないよう防御することで、同時に喜びも同じ深さで拒否していた。

 

 

 

「愛されたい」

という強烈な願いは

 

 

「愛されたくない」

を隠すためのまやかしだった。

 

 

強く想うことほど、

裏腹なアンカーを抱えている場合がある。

  

 

一枚一枚玉ねぎの皮を剥ぐように、

少しずつ氣付きの深さが増してくる。

解放

しばらく前のお話。

 

まだ夢現の状態で

「離れなければいけない」

というキーワードが降りてきた。

 

これは長い間、

そう…もう何十年もの間

私の深い深いところにあった呪縛。

 

だれと付き合っても、

親でも友達でも、

 

大切な人はいつか必ず私から離れる。

 

結局いつも最後には

私は誰からも必要とされない。

 

誰かには誰かがいるのに、

私は誰の一番にもなれない。

 

そう思っていた。

 

 

過去世から持ってきた

奥深くにあった思い込み。

 

なんの前触れもなく

たまたま目にした誰かのブログにより

扉は突然開かれた。

 

 

私は「いつか必ず離れなければいけない」と思ってきた。無意識下でずっと自分にそう“言い聞かせて”きたのだ!頑なに!

 

だから現実はその通りになってきた。

 

現実はいつも自分が思っている通り。

 

私はこんなに辛い想いを抱えて生きてきたんだ…。こんなにも辛い想いをして一人胸を痛めてきたんだ。

 

辛かったよね。

ごめんね。

 

もう離れなくていいんだよ。

 

大丈夫、安心していいよ。

 

そんな想いを精一杯自分に向けたとき

安堵の涙が溢れた。

 

 

物心ついた頃からどこから生まれてくるのかわからない孤独感があり、ずうっともがいてきた。

 

誰かにわかって欲しいと外に向けてきた想いは、自分が氣づき受けとめた途端氷がとけるように私の中に溶けてしまった。

 

肚がズシっと入った感覚がある。

 

この体感は私のものだけど、

この記憶は現世の私ではないことだけはわかる。

 

遥か昔、過去世の記憶。

置き去りにしてきた自分との再会。