蓮花[Hasuhana]blog

日常に溢れる真理。

解放

しばらく前のお話。

 

まだ夢現の状態で

「離れなければいけない」

というキーワードが降りてきた。

 

これは長い間、

そう…もう何十年もの間

私の深い深いところにあった呪縛。

 

だれと付き合っても、

親でも友達でも、

 

大切な人はいつか必ず私から離れる。

 

結局いつも最後には

私は誰からも必要とされない。

 

誰かには誰かがいるのに、

私は誰の一番にもなれない。

 

そう思っていた。

 

 

過去世から持ってきた

奥深くにあった思い込み。

 

なんの前触れもなく

たまたま目にした誰かのブログにより

扉は突然開かれた。

 

 

私は「いつか必ず離れなければいけない」と思ってきた。無意識下でずっと自分にそう“言い聞かせて”きたのだ!頑なに!

 

だから現実はその通りになってきた。

 

現実はいつも自分が思っている通り。

 

私はこんなに辛い想いを抱えて生きてきたんだ…。こんなにも辛い想いをして一人胸を痛めてきたんだ。

 

辛かったよね。

ごめんね。

 

もう離れなくていいんだよ。

 

大丈夫、安心していいよ。

 

そんな想いを精一杯自分に向けたとき

安堵の涙が溢れた。

 

 

物心ついた頃からどこから生まれてくるのかわからない孤独感があり、ずうっともがいてきた。

 

誰かにわかって欲しいと外に向けてきた想いは、自分が氣づき受けとめた途端氷がとけるように私の中に溶けてしまった。

 

肚がズシっと入った感覚がある。

 

この体感は私のものだけど、

この記憶は現世の私ではないことだけはわかる。

 

遥か昔、過去世の記憶。

置き去りにしてきた自分との再会。

 

思いこみが生んだ罪悪感

わたしは長い間

何処かへ遊びに行ったり、

旅行する度、罪悪感を持ってきた。

 

 

 

 

 

両親に対して。

 

 

 

両親は共働き。

 

父は毎日朝日が昇ると同時に起き出し、朝食前から働き、夕食を食べた後も遅くまで休みなく働いていた。

 

母はフルタイムで働いた上、父の仕事を手伝い、家事育児、実家の農園の手伝い、祖母の介護まで1人でこなしていた。

 

母の義弟が経済力のある優しい人で、仕事で忙しい父の代わりに色んなところへ連れて行ってくれたが、家族全員揃っての旅行は一度もなく、たまに外食するくらいだった。

 

そんな中でも母は学校のイベントには必ず来てくれたし、毎日ちゃんとごはんも作ってくれていた。

 

とにかく働き詰めで自分の時間などなく、いつも大変そうで苦労のし通し。

 

なんの楽しみもなく過ごしているように見えていた。

 

だからそんな両親をおいて自分だけが友達と遊んだり、何処かへ旅行したりするのは申し訳ない気持ちにしかならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

つい先日までは。

 

 

 

そう、

 

 

 

 

先日までは。

 

 

 

実は先日、

何が起こったかというと

 

 

あるものを見てしまったのだ。

 

 

 

そのあるものとは…

 

 

 

写真。

 

 

 

大量の。

 

 

 

 

旅行の!!!!!!!

 

 

 

地域の積立で、

社員旅行で、

母の姉妹夫婦で、

息子夫婦に連れられて、

組合で、

何かのツアーで、

国内各地、

海外も、

 

 

もう出るわ出るわ。

 

 

 

母がアルバム整理をしていたところに居合わせた為、たまたま目にした数々の旅行写真。

 

 

両親は行きたいところへ行けず、

楽しむこともなく。。。?

 

 

 

 

イヤイヤ!

むしろ私より行っとんじゃね?

 

 

 

 

私が罪悪感を

感じることなどなかったのだ…

 

 

 

 

 

私はずっと両親を

 

「不幸」だと思い込んでいた。

 

 

どこにも行けてないし、

 友達にも会えてないし、

 欲しいものも買ってないし、

 ゆっくり出来てないし、

 楽しいことなんてないし、

 

と、思い込んでいた。

 

 

 

 

 

勝手に。

 

 

でも両親は

 

会いたい人に会い、

美味しいものを食べ、

買いたいものを買い、

旅行を楽しみ、

夫婦の時間を過ごし、

 

私が想像していたよりも遙かに豐かな時間を過ごしていたのだ。

 

 

私とは生きてきた時代背景が違うので、価値観が全く違い理解出来ないことも多い。 

 

でも彼らは彼らの価値観と世界の中で

彼らなりの幸せな時間を過ごしてきたということに初めて氣がついた。

 

 

 

 両親は「不幸だ」と

思い込んで見える世界と

 

両親は「幸せだ」と

思って見える世界は

 

景色が全く違う。

 

 

 

この罪悪感が

私の人生に何を起こしたかというと、

 

 

私は楽しいことをしてはいけない

私は1人だけ幸せになってはいけない

私は豐かになってはいけない

 

 

 

そんな呪縛を自らかけていた。

 

 

 

そして私が遊びに出かけようとする度

 

どこ行くの?

誰と会うの?

いつ帰るの?の後に決まって

 

「遊ぶばかりして」と言われていた。

 

 

聞こえていないふりをして

振り切るようにして出掛けていた。

 

旅行に行くときは決まって

仕事の研修や出張、

友達の結婚式に出席すると

嘘をついていた。

 

大義名分がないことには

出掛けられなかったのだ。

 

 

 

 

 

それくらい

抱いていた罪悪感は大きかった。

 

 

 

 

この発見があったお陰で、

この罪悪感を解放することができ、

 

やっと、もっと楽しんで生きて良いと思うことができたこと、

 

何より

両親は幸せだったのだとわかったことが何よりうれしい。

 

 

食から観える自己のパターン

何を隠そう、私は結構な大食い女。

 

でした。

 

過去形。

 

ピーク時は1日5食、それぞれがちゃんと普通より多めの一人前。2時間ごとにスッカリとお腹が空いていた。

 

過度な買い物や食事は、自分の中の欠乏感を埋める行為だと知っているけど止められない。

 

 

なぜなら欠乏していたから。

 

 

何かで満たさないと生きていられなかった。

 

今もまったく無いわけじゃない。

 

でも

すきなこと、

 

やりたいこと、

 

きらいなこと、

 

やりたくないこと

 

これが少しずつ明確になり、
行動にすればするほどばそれは明らかに感じなくなっている。

 

つい口寂しくてとか、家族・友達が食べているから、なんとなく食べていることをとても客観的に見ている自分がいる。

 

そんな自分をしばらくの期間ぼんやりと眺めていたけれど、客観的に見られるなら行動に移せると思い、

 

都度身体感覚に意識を向けて、食べるタイミングを見極め適切な量にしようと試みている。

 

朝だから、

昼だから、

夜だから、

寝る前だから、

 

身体にいいから、

身体に悪いから、

 

そんなことはすべて

横におく。

 

食べたくない時は
とにかく食べない。

 

食べたくないものも

とにかく食べない。

 

食べたい時に
食べたいものを、
食べたい量 食べる。

 

何も我慢していないのに、
食べる量が全然ちがってすごく面白い。

 

シンプルなのだけど、
身体の声を聞くって望みを叶えてあげること。

 

身体が欲していないのに食べたくない時間に食べたくないものを食べることが、如何に自分に無理強いをしていたのか。

 

そのストレスから解放されるだけで、身体がリラックスしている。

 

お金も、仕事も、パートナーシップも、別ごとに見えて実はすべて根っこは繋がっているので同じ。

 

一つパターンがあれば、
全てに同じ行動をとっている。

 

命に関わる食において
自分に無理を強いているパターンがあるなら、お金、仕事、パートナーシップにおいても同じことをしている。

 

知らず識らず自分に無理をさせる癖が根付いているけれど、こんな小さなことから氣づけることが日常には沢山ある。

 

知ってたけど、解ってなかった。

 

やってるつもりで、やってなかった。

 

なにごとも
氣づくまで、わからない。

 

日常こそすべて。

お茶会@リッツカールトン大阪のお知らせ《改》

先日お知らせしたお茶会の告知で

変更がありますので再告知いたします。

 

実は先日、下見のため一足先にリッツカールトンでアフタヌーンティーを体験してきました。

 

生演奏あり、前菜からスイーツまで非常に可愛らしく、カップのお茶が少なくなれば絶妙なタイミングで注いで下さり、落ち着いた空間でのゆったりと心地良い時間となりました✨

 

が、しかし、

 

私は甘いものが苦手(笑)

スイーツで撃沈しました。。

 

女性として生まれたからには

一度はアフタヌーンティーを体験したい、

 

せっかくならどなたかとご一緒できればなお楽しいのでは♪  と思い企画いたしましたが

 

…もう甘いものは要りませぬ。。

 

それで、もしかしたら

アフタヌーンティーが要らないという私のような方もいらっしゃるかもしれませんので、プランと参加費の見直しをしました。

 

当日飲食は実費にて、

自由にいただきましょう(*^^*)

 

 

自分らしく生きるために色々と勉強して身につけて来られた方は、自分を本質的な豊かさに導いてくれるものが何か分からなくなっていることと思います。

 

本当は何かを身につけることより

事実を認め、不要なものをそぎ落としていくことこそが大切なのです。

 

頑張っても頑張ってもうまくいかない、

そんな方は思い込みのフィルターがかかっているために氣づけていないだけで、本当はびっくりするほど身近なことが変容のカギを握っています。

 

当日はそんなお話を出来たらと思います。お会い出来るのを楽しみにしています。

 

🌟あなたにとっての豊かさを知り、至福を生きるお茶会🌟


【日 時】11月11日(金)13時~16時
【場 所】リッツカールトン大阪
1F ロビーラウンジ
【人 数】3名様
【参加費】10,000円 ※事前お振込

【問合せ&お申込】odeko.dekopon1501@gmail.comまで
※その他詳細は、お申込後直接メッセージにてご案内させて頂きます。

お金の奴隷

つい先日、

友人宅に滞在中 急性胃腸炎になり、

深夜タクシーを呼んでもらい、

付き添ってもらって救急窓口を訪ねた。

 

点滴を打ち、2時間ほどして再び友人宅へ帰り、そのままなだれ込むように寝入った。

 

 

その友人宅に泊まる際、いつも車は近所のコインパーキングに入れる。

 

丸一日がっつり遊ぶ場合は

24時間900円

 

夜、ご飯を食べてゆっくり過ごすだけなら20時〜翌8時まで500円

 

日中数時間お茶しながら話す位なら

50分100円(半日ごとの上限額はある)

 

などなど繁華街にほど近く

駐車場は選び放題なため、

いつも滞在時間に合わせて停めている。

 

今回は夕方から数時間居るだけのつもりだった為、50分100円のコインパーキングへ。

 

ところが、

予定は大きく変わり

 

その日は夕方まで友人の家で過ごし、夜は別の友人と食事、その後また友人の家でまったりしていたところ突然胃の違和感があり

 

胃薬を飲むも敢え無く嘔吐。

 

胃液しか吐くものがない状態になり、

いよいよまずい状況に。

 

そして冒頭の流れへ。

 

 

初日は考える余裕すらなく寝入り、

翌日は早めに帰ろうと思っていたが、体調が芳しくなく起き上がる体力がない。

 

普段からよく泊まらせてもらい、

誰よりも気心が知れている友人。

 

だがさすがに病人の看病をさせてしまうのは忍びない。

 

しかも2日間。。

 

しかも駐車場は50分100円加算される。

 

少しずつ葛藤が始まる。

 

ラッシュにかからない時間帯や、信号が点滅にかわる22時以降なら負担も少なく何とか帰れるかもしれないと考える。

 

だが身体が辛く、

できれば動きたくない。。

 

葛藤は続くが

その内にまた寝入ってしまい、

友人が電気を消す音で目が覚めた。

 

「帰るって言ってたから迷ったけど、ぐっすり寝てたから声を掛けなかった。無理せずもう一日寝て帰り」と言われ安堵した。

 

だが駐車場の料金は

いまも加算されている。

 

「もう一晩?

総額いくらかかる?

2日間も24時間打止めでない所に停めるなんて…

 

グルグルグルグル…

 

・・・・・まてよ?

 

今夜一晩数百円をケチり、

身体に負担をかけてまで運転して帰るのか、

 

その数百円をかけて

自分を労わりこのままゆっくり眠るのか。

 

どちらが大事だ?

 

物凄く葛藤したわりに

かかるお金は一晩数百円。」

 

 

私は自分を労わる方を選んだ。

 

普段なら確かに無駄遣い。

だが今回は身体を労わるためのお金。

 

私の「お金との関わり方のパターン」が明確に見えた出来事となった。

 

恐らく以前の私なら多少無理をしても

帰っていただろう。

 

でもそれは文字通り

“お金の為に”自分を動かす行為である。

 

昔読んだ成功者の言葉に

「成功者はお金の為に働かない

お金を自分の為に働かせる」

という言葉があった。

 

当時言葉の意味はわかっても、

どうやったらそうなるのか全くイメージが湧かず、意味が理解出来なかった。

 

だがその意味を

ようやく理解出来た氣がした。

 

私はまさに正反対の

「お金の奴隷」だったのだ。

 

このパターンを

ずっと繰り返していた事に氣付いた。

 

お金を稼ぐために働き、

お金を減らさないための努力

お金を増やすための努力をしてきた。

 

今回駐車場料金だけを見ると確かに無駄だが、

 

その数百円をかけたからこそ、無理をせずゆっくり身体を休めることが出来たのだ。

 

この数百円には物凄く意味がある。

 

私は無意識に

自分の身体と数百円を天秤にかけていた。

 

自分より大切なお金など無い。

 

たかが数百円、されど数百円。

この数百円による氣付きは計り知れない。

 

そしてどうやらこの新月から次の満月までの期間には、お金との関わり方が変わる流れがあるとのこと。

 

イムリーな出来事。

 

怒りの正体

些細なことで父と喧嘩をした。

 

ここのところ急に物忘れが酷くなり、話が上手に噛み合わない。

 

だが普段は腹をたてることはなく笑って過ごしていたはずなのに、なぜか今夜は火がついた。

 

会話で従姉妹の名前を出した際、父はその子が誰なのかピンとこない様子でポカンとしていた。

 

本当に些細なこと。


普段なら「どこそこの誰それだよ〜笑」で終わっているくらいのこと。

 

だが今日はいつもと違う。

イライラが止まらない。

 

自分自身 暴走する口調に
なぜそんなに怒っているのかと思うほど、どこか冷静な自分がいながらも口撃が止まらない。

 

黙っていた父が怒り出し、

お互い一言言い放って喧嘩は終了。

 

 

ここで自分に問いかけが始まる。

 

 

「目の前の問題は問題ではない。

この怒りは何に対する怒りだろう。」

 

すべては投影でしかない。

 

 

私は“父に対して怒ったが、
父に対して怒っているわけではない”。

 

 

本当は何に対して出てきた

怒りなんだろう。。

 

 

 

答えは単純なことだった。

 

 

 

それは
「私自身の老いに対する恐れ」を
見過ごそうとしていたことに対する怒りだった。

 

恐れているのに、
恐れていないフリをしていた。

 

若く見られる方ではあるが、心のどこかで大体お世辞だろうと思っていたし、近くで見ればそれなりの肌だと認識していた。

 

衰えは進行している、だから「人生で最も若い今日の私」を永遠に留めたいと「若さ」にしがみつき悪あがきをしていた。

 

この事実を正面から見て受け入れることが出来ず、今の美しさを失えば自分の価値がなくなってしまうかもしれない、そんな恐怖(幻想)と闘っていた。

 

この恐れのバイブレーションが内側から発せられているのに、亡きものにしようとしていた。

 

私自身から発せられた感情から逃げていたことに向けられた怒りだったのだ。

 

私の中にある

恐れの感情を受け容れないから、

父の老いを受け容れられなかったし、

 

その事実を直視できなかったから、

父の老いを直視できなかったのだ。

 


生と死は3次元の最たる陰陽。

 

私たちは生まれた瞬間から
死に向けて生きるという幻想を信じこまされて生きてきた。

 

だが意識こそが現実であり、

その意識(内側)が目の前の世界を創り出している。


望んだものは必ず実現する。

 

老いへの恐れに抵抗すれば、
そこに執着を持っているから
老いを摑んで離さないのと同じこと。

 

摑んで離さなければ
欲しいと言っているのと同じこと。

思考ではなく、それが叶う。

 

恐れを持っている
そこから目を背けず認めるだけで

自然と解けていく。

 

そして問題は

問題では無かったと氣づく。

 

怒りの正体は

いつも自分の内側に秘めていること。

 

父への怒りは

そんな私の八つ当たり。

誰かのためにではなく、まず自分のために生きる。

誰かが喜ぶからと

行動すると…

 

相手が喜びの表現や

感謝をしなかった時

 

私はこんなことをしてあげたのに

こんなに頑張ってるのに、

こんなに尽くしているのに、

と恨み節が出る。

 

自己犠牲の上でやっているため

見返りを求めてしまうのだ。

 

本当に何の見返りも求めず、

自己犠牲ではなく、

ただしたかっただけ、

愛だけの行動であったなら

決して出てこないもの。

 

 

例えば

これはあの人にきっと似合う♪と

プレゼントをしたり、

 

あの人の好物だったよね♪と

手土産を持って行ったり

贈り物したり

 

ただしたいから  したのなら、

渡して完了となる。

 

それ以上も以下もなく、

万が一お礼の連絡がなかったとしても

腹をたてることはあり得ないのだ。

 

なぜなら

自分がしたいと思った事を“ただ”した。

行動したことで完了しているからである。

 

ありがちなパターンとして

彼氏が相手なら

かいがいしく料理をしたり、

お化粧やお洒落をする。

 

彼を喜ばせたいから料理をする

彼にもっと好かれたいからお化粧する

彼に可愛いと思われたいからお洒落するだと

 

美味しいと言ってもらえないと

口に合わなかったのかな?とか、

せっかく頑張って作ったんだから、ありがとうとか、美味しいとか言わないの?となり、

 

お化粧やファッションも、可愛いと言ってもらえないけど、好みじゃないのかな?これじゃダメなのかな?他の子の方が可愛いって思ってる?となる。

 

これらはすべて

承認欲求を自分以外の誰かに

満たしてもらうための行動。

  

その誰かが望んだ通りの反応をしてくれなければ不安や不満を生み、相手を攻撃するか、自分の何がいけなかったのかと自己否定に走る。

 

そして

もっと喜んでもらうために

もっと好きになってもらうために

 「自分ではない自分」になろうとする。

 

その行動は 本当の自分から遠ざけることになってしまう。

 

誰かの役に立ちたいという想いは、

魂が持っている根源的なものであるため、本来なら自然な事ではあるものの、

 

「誰かのため」で起こす行動はエゴを満たすためであり、結局のところ自分の饑餓感を満たすために相手を利用しているに過ぎない。

 

誰かを満たすではなく、

まずは自分を満たすこと。

 

「〜してはならない」「〜ねばらない」の思考の枠に氣づき認め解放し、根底にある欲求に寄り添った行動をする。

  

満たされていない自分を誤魔化し、

誰かに奉仕することで余裕のある素敵な自分を演出しない。

 

満たされていない事実から目をそらしている限り、その無限ループからは永遠に抜けられないのだから。

 

すべての人類において例外なく、

自分を満たせるのは自分だけであり、

目の前の世界を変えたければ

内側に目を向けるしかない。

 

世界の恵まれない子どもたちを何とかしたいのは、放置されてきた自分の魂が自分にSOSを発信しているから。

 

自分を満たさずして誰かを救おうとするのは、大きな重りを持って溺れている人を助けに海に入り、一緒に溺れる(共依存)のと同じこと。

 

本当に誰かの役に立ちたいのなら、

自分の内側に集中すること。

 

自分の内側が満たされ溢れてはじめて

他者はその豊かさに触れることができるのだ。