蓮花[Hasuhana]blog

日常に溢れる真理。

嫉妬への恐れ

心を通わせられる、

魂のかたわれと感じる、

そんな大切な人に出会ってしまったら…

 

果たしてそれを

何の躊躇もせずに人に言えるだろうか?

 

と考えた時、

「嫉妬」が怖い。

 

と出てきた。

 

誰に??

 

誰に嫉妬されるのが怖いのか。

 

友達?

知人?

SNSで繋がる誰か?

職場の人?

 

 

驚くことに

答えは「母」だった。

 

 

一番嫉妬されるのを恐れているのは

なんと母から。

 

でもそうだったと、

本当は分かっていたのに

蓋をしたかったことだと思った。

 

一番身近なパートナーシップは両親。

 

その両親の関係を見て育ったので、

苦労してきた母を私は知っている。

 

そして私の目から見た母は

幸せには見えなかったのだ。

 

だから心の奥底で

母より幸せになってしまったら

申し訳ないという氣持ちがある。

 

そして私が心から幸せになった姿を見たら、きっと母から嫉妬されてしまう。

 

それが怖いのだと感じた。

 

勿論母はそんなことを思っていないだろうし、私の幸せな姿を見れば喜んでくれることは間違いない。

 

でも辿ってみると

母は恐らく母の欲しい愛情を

父からは与えられていると感じていない。

時代背景もあるので

夫婦とは“こういうものだ”と

受け容れていると思うけれど。

 

そして母は父親(私の祖父)が

早くに亡くなったことで

父親からの愛情も受けられていない。

 

そしてその母の母(私の祖母)もまた

夫(私の祖父)を早くに亡くし

パートナーの愛を受け取れていない。

 

これは代々引き継いでいる

カルマというパターン。

 

私は無意識レベルで

両親の関係性を

引き継ぎたくないと否定していた。

 

私から見た母は

不幸な人生だったと

どこかで思ってきたのだ。

 

だからそんな母を差し置いて

幸せになるなんて

母が可哀想だと憐れんでいたのだ。

 

その方が余程失礼なのに。

 

もう十分苦しんできたのだから

この連鎖は私の代で終わらせる。

 

子どもの目から見た母と

今の私から見た母は違う。

 

母は母の人生を選んできたのだから

母なりに幸せだったかもしれない。

 

だから私は

誰に遠慮することなく

私を幸せにすることを

あらためて誓う。

 

どう在るかが大切

ここのところ

 

神社、龍、スピリチュアル、引き寄せ

自己啓発、キラキラ起業etc...

 

諸々ブームは去った!と

仰る方の多いこと。

 

いろんな人がいるので、

確かに一時的な盛り上がればブームなのだろうけども。

 

キラキラ起業は

私もどうかと思うけれど。。

 

神社も龍も、スピリチュアルも、引き寄せも、遥か昔からずっと当たり前のように“在る”もので、ブームという言葉には些か違和感がある。

 

きっと

使っては捨て、使っては捨て、

これがダメなら次はあれというように

頼る対象が変わっている人の中では

ブームというカテゴリーに入るのだろう。

 

だけど

スピリチュアルや引き寄せも、

宇宙の真理(叡智)はずっとある。

私たちの身近に、いつも。

 

いつも。

 

それらすべてが

この世界を創り出している

叡智そのものなのだから。

 

八百万(やおよろず)の神がいるという感覚は日本人にしかないらしい。

 

空や川、山や石、植物に動物

様々なものに神は宿ると考えられている。

 

手のひらにすくった海の水は

世界の海そのものであり、

世界の海の一部でもある。

 

人もまた宇宙そのものであり

宇宙の一部でもある。

 

情報もまた同じこと。

 

 

視点が偏ると

例えば自己啓発にハマるとスピリチュアルは夢見る夢子とバカにしたり、

 

神事に携わっていると

相談者を下に見たり

 

あれはすごいけど

これはくだらないとか

 

あれは本物で

これは偽物と決めつけてかかる。

 

 

ある知人親子のお話、

 

お母様はスピリチュアル大好き。

お嬢様はスピリチュアルは苦手だけど、

量子力学からなら理解出来る。

 

という親子がいました。

 

同じことを理解するのに、

母はスピリチュアルから、

娘は量子力学から情報を得る。

 

家族でもこんなに極端に違うこともある。

 

他人なら尚更のこと。

 

人の数だけ環境や経験は違い

考え方も異なる。

 

そうすると同じ事象に対して

感じることも違う。

 

だからその人のタイミングで、

その人の成長・変化にあったものを、

そして自分が受け取りやすい情報を

好きなように選び、使いこなせば良いだけなはず。

 

見えない世界はスピリチュアル、

見えることは科学というが、

突き詰めたところ

2つの行き着くところは同じなのだから。

 

どんなツールを使ったとしても

みんなが豊かになれば

それで良くないかな?

と感じた数日。

 

結局は

何を使うかより

どう使い、どう在るか。

 

ここを問われている氣がする。

「愛してる」が沁みない

自分を愛するワークの中に

自分(自分の身体)に

「私は私を愛しています」

と言う、というのがある。

 

これまで

何度も何度も試みてきたけれど

ちっとも自分の中に沁みてこない。

 

むしろ

何も感じない。

 

何でだろう?

 

最近あらためてやってみたら

何だか私にブロックされているような、

自分の身体の中を投げかけた言葉だけが

すり抜けている感じがしてきた。

 

精一杯心を込めて言ってみても

響いてこない。

 

 

何度もやってみて

わずかに感じられたのは

恐れのような感覚。

 

 

沁みないのではなく、

沁みて愛に気づいてしまうのが怖いのか。。?

 

本当は愛されていること

溢れるほどの愛が自分の中にあること

この世界は愛でしかないこと。

 

そこに気づいてしまうのが

ただ怖いのかもしれない。

 

だから拒否している

…のかもしれない。

 

 

 

でも “今は” まだそうなだけであって

この先どうなるかはわからない。

 

 

愛を受け容れることが“良い”ことで、

愛を受け容れられないことが“悪い”

訳ではない。

 

ただ “今はそうである”

というだけ。

 

だからそれを“今は”受け容れる。

 

そんなことが

ありのままの“今の”自分の

ほんの一部。

内側が外側

きっと多くの人たちは

 

起こった出来事に対して

様々な感情を感じている

と信じているけれど

 

本当はそうではなくて。

 

自分の内側に

自分では気づいていない

何らかの感情を持っているから

 

出来事が起こることによって

その感情をあぶり出されている。

 

それがいわゆる

「現実」と言われる世界。

 

 

例えば

 

割り込みをされたから

怒ったのではなく、

 

自分が抑圧してきた感情に

いつまでも気づいて(目を向けて)あげないから

 

割り込みという出来事が起こり、

(出来事自体は何でも良し)

あなた怒ってるでしょ?と

気づく機会を与えられている。

 

 

感情は感じるためにあるし、

感じるために生まれてきたのだから

 

自分で自分の発している感覚に寄り添い

耳を傾けることが何より大切。

 

自己愛の核は

ただ贅沢をさせることではなく

(させても良いけど)

 

いつどんな時も

自分に寄り添い、

自分と心を通わせること。

 

そうして

内側が満たされれば

外側でも満たされる。

私のいちばんの味方

何を持っていても、

何も持っていなくても

 

何が出来ても

何も出来なくても

 

どんな私であっても

何があっても

 

私だけは絶対に

私の味方でいると

 

決めること。

 

絶対的な味方は

他の誰でもない、

私自身。

 

物質で豊かさを感じられるのは

ほんの一瞬。

 

本物の豊かさは

自分の内側からのみ

生み出せるもの。

与えられているものを ただ受け取る

人にはいつも

その時、その瞬間に

必要なモノ、コトは

全て与えられている。

 

そしてそれはいつも最善。

 

みんなそれぞれの観点から

好き嫌いや善悪の判断をしているだけで

本当はそのモノやコトに善悪はない。

 

ポジティブ、ネガティヴもない。

 

というより、

全てのモノやコトは

その両方を包括している。

 

なぜならこの世界は相対の世界。

二極があって一つ。

 

だから片方だけなんてものは

この世にはない。

(ただそう見えているだけ)

 

いまこの瞬間の自分にとって

最も必要なモノ・コトしか起こらないし与えられない。

 

だから、

今この瞬間に与えられているモノ・コトを受け取らない限り、例え頭で望んでいることが目の前で起きても受け取ることは出来ないし、

 

もし仮に受け取ることが出来ても

おそらくいずれ手放すことになる。

 

だからいまこの瞬間に与えられているものを、思う存分味わい尽くす。

被害者意識

私はこれまでの人生

いつも〝何か〟や、〝誰か〟のせいにして生きてきた。

 

その自覚がなかった頃もあれば、

何となく頭では〝そうしている〟ことに氣がついている自分も居た。

 

でも今日しっかりと肚におち、

確信してしまった。

 

これは事実だと。

 

 

 

 

私の両親は70代後半。

夜寝るのも早いし、勤勉で真面目。

心配こそ愛情表現と思い、過干渉。

40にもなった娘に帰りが遅いと電話をかけ、休みの日に親族以外の誰かと会えば家を空けることに小言を言う。

朝昼晩きっちり3食食べなければいけないと叱り、、、

挙げればキリがない。

 

この世代にとっては当たり前かもしれないいろんなルールが、私には正直鬱陶しく感じるものばかり。

 

 

好きにさせて。

 

 

放っておいて。

 

 

事情があって去年の夏にひとり暮らしを解消し実家に戻り居候しているのだけど、一度自分のペースや心地よい空間を経験した後の実家は居心地が悪いものだった。

 

 

 

とはいえ、

現実的には助けられているので、

とてもありがたいと思うように

自分に言い聞かせてきた。

 

家賃や光熱費を心配しなくても

雨風凌げる家にあったかいお布団、

朝目が覚めれば出来ている朝ごはん、

あったか〜〜いお風呂に湯たんぽ。

幸せすぎる〜〜!

 

これらは与えられているから

あるのだから、それ位感謝していないと人として問題がある。(と思っていた)

 

でも

私が感じている感情と、

環境を与えられているから感謝することは、まったく別事。

 

ごちゃ混ぜにすると

ややこしくなってしまう。

 

 

実家に戻った当初、

私一人で家2軒分(母屋と離れ)

丸ごと掃除をしまくった。

 

家族がもっと氣持ち良く過ごせるようにと、念入りにみっちりと。

 

そこで起こったのはなぜか喧嘩。

 

年を取り、動くことが億劫な両親にとって、手の届く位置に物が何でもあることが快適であり、使わない物でさえ捨てられない。

 

逆に私は 物は出来るだけ少なく、整理整頓されている空間が快適に感じていたので、ちょっとした物もきちんと片付けたのが裏目に出たらしく、不便だの余計なことをするな!と怒られるのだ。

 

理不尽極まりないとブチ切れて、

そんな日はプチ家出状態で友達の家に泊まったりもした。

 

 

何が言いたいかと言うと、

 

何もかもが違うのだ。

ぜ〜〜んぜん、

まったく!相容れない!

 

快適の概念すら

血の繋がっている両親とでさえ

まったく違う。

 

そう、違うのだ。

 

それなのに何故か

親子なら相容れなければいけない

理解しなければいけない

というルールが私の中にあり、

それを自分にも両親にも無意識に課していた。

 

だから不要な葛藤を生んでいたのだ。

 

そんなことに氣がつかず、

誤魔化し誤魔化し

何となく一緒に暮らしていた不満が

今日爆発した。

 

出先からの帰り、家に帰りたくない強烈な衝動に駆られて涙が出た。

 

なんでこんなに涙が出るほど嫌なのに家に帰ってるんだろう。。

 

帰らない選択はないの?

 

だれも私に強制なんてしてないのに。

 

 

ああ…

こんなになるまで勝手に自分の氣持ちを押し殺して我慢してたんだ。

 

本当はいつだって環境を変えることは出来たはずなのに、そうしなかったのは私だった…。

 

氣づいてみれば

当たり前のことだけど、

 

ここではない

どこかに行きたかった私が

どこにも行けなかったのは、

 

私が行こうとしなかったからなんだという、至って単純な答えにやっと氣がつけた。

 

何も心配しなくて良い環境は

ありがたく、感謝している。

 

でも居心地は悪い。

 

両方が事実。

 

それなら一緒にいなくても良いし、

一緒にいられないからといって

愛してない訳ではない。

 

ちゃんと愛はある。

 

お互いに心地良い空間やペースが違うなら、それを尊重して別々に暮らせば良いだけ。

 

勝手に相手を悪者にして

自己防衛していた。

 

自分がどこにフォーカスしてるかで

見える世界はかわる。